本文章の全編は、11月14日(月)に行われる「浅野達彦 - ドシンの跡を追って "In The Wake Of Doshin, the GIANT" LP Release Party」の来場者特典として配布いたします。
浅野達彦『ドシンの跡を追って "In The Wake Of Doshin, the GIANT"』が、このたび初めてLPレコードでリリースされました。そのリリースパーティに合わせて、本鼎談をお届けします。
1996年に「M.O.O.D.」からの7インチ「bonjour」でソロ・デビューして以来、浅野氏の作る音楽は、抽象的なようで親しみやすい、トロピカルかつパーソナルなサウンドで好事家たちを魅了してきました。2000年にNINTENDO64DD用ゲーム『巨人のドシン』のために制作されたこのアルバムも、数多あるゲーム・ミュージックの枠を超えて、CDリリース時から長く聴き継がれていた1枚。自分もそんなリスナーの1人でしたが、実は『巨人のドシン』というゲーム自体がどのようなものだったのかは知らないままでした。
そこで今回は、ゲームのサウンドトラックとしての本作品に注目。取材する我々も事前に『巨人のドシン』をプレイした状態で挑み、浅野氏、そしてプロデューサーの桝山寛氏、ディレクションを務めた飯田和敏氏の3人に語って頂きました。このゲームと浅野氏の音楽、そして制作された90年代後半のカルチャーとの関係性について、貴重なお話が繰り広げられています。
ーーまず、『巨人のドシン』の制作前は、どんな状況だったのでしょうか。
浅野 僕が飯田君と最初に会ったのは、大学を卒業したあと人形町のゲーム開発会社でバイトしてた時でした。そこはグラフィックとプログラマーで構成されていて、プログラマーは制作に対して厳しい雰囲気があったのですが、その人たちがよく「飯田君っていう人がいる」って話してて、周りから尊敬されている感があって。会社の中で、飯田君は特殊な人なんだって捉えられている感じでしたね。
飯田 当時はツールを全部社内で作ってたんですよね。その使い勝手について色々と改善するためのミーティングとかをしてました。
浅野 PCエンジンのソフトとか、なんかスロットみたいなゲーム作ってましたよね。あと、原由子さんの描いたキャラクターが出てくるCD-ROMのゲームとか......。オオカミが溺れる絵とか描いてたな。
飯田 あとブリューゲルの絵画「子どもの遊戯」をアニメーションで動かすようなものもあった。それを浅野さんと一緒に作ってたような気がする。
桝山 それやってみたいな。
ーー当時、浅野さんの周りにはほかにゲームに携わる方がいたのでしょうか。
浅野 学生時代の友人や先輩が何人かそこで働いていましたが他にはいなかったです。学生時代にもコンピュータを扱う雰囲気がまだなかった。モノクロのマッキントッシュの画面を見てびっくりするくらいだったので。
桝山 今だとイメージしにくいかもしれないんですけど、当時のコンピュータって、画像を扱うのが得意じゃなかったんですよ。どちらかというとExcel、Wordの世界。
飯田 その会社にギターがあったんだよね。それを浅野さんが休憩時間に弾いてて、何やってるんですかって感じで声をかけて。
浅野 音楽を作るスタジオ部屋があったんです。会社には音楽専門のチームもいたんですけど、その人たちと別のところで遊んでた感じでした。
飯田 そこで浅野さんがバンドやってるって聞いて芸大の文化祭を観に行ったら、会社ではいつもニール・ヤングとか弾いてるのに、そのバンドはテクノだったんだよね。
ーーどんなバンドだったんですか。
浅野 元々は普通に楽器を演奏してたんですけど、テクノとかハウスの12inchのシングル盤を買うのが自分たちの間でブームになってきて、それに影響されたんですよ。上半身裸で汗だくでテクノ、みたいな。
桝山 それって東谷(隆司)君がいたバンド?
飯田 そうですそうです。
桝山 彼はもう亡くなってしまいましたが、無頼なキュレーターでした。浅野さんはミュージシャンにしては非常に真面目で付き合いやすいけど、東谷君は真面目そうに見えるんだけど非常に面倒くさいっていうか(笑)、色々言いたいこと言う人でしたよね。
浅野 テクノのバンドのやり始めの頃に808 Stateが初来日したんですけど、そのライブ観たらみんな演奏してなくてステージでただ踊ってて、「こんなのアリか! 演奏しなくていいんだ」ってすごく影響されて、DATにオケを入れてスイッチだけ押してみんなで裸で踊るみたいなことに。
ーー当時はほかにどんな音楽を聴いていたんですか。
飯田 レジデンツはすごく好きでしたね。あとスティーブ・ヒレッジや、マニュエル・ゲッチングの『E2-E4』。当時はほとんど有名ではなかったけど、浅野さんはその辺を知ってて。
浅野 『Ambient House』ってコンピレーションがあって、そこに入っていたスエーニョ・ラティーノがサンプリングしていて知ったんじゃないかな。
ーー今回、事前にプレイするためのソフトを提供していただいたMOODMANさんと先日話していたんですけど、当時、浅野さんの周りの人たちが作る音楽が、みんなすごかったと仰っていました。
浅野 みんなバンド仲間でしたね。
飯田 それねえ、僕からの視点だと、みんな「葉加瀬太郎が嫌いな人たち」でした。
ーーえっ、どういうことですか(笑)
浅野 ちょうど葉加瀬太郎と同じ時期に在学していたんです。
飯田 寮が一緒だったんだよね。彼らの隣で爆音でパンクかけたりとかしてて。
浅野 僕は寮生ではなかったんですけど、そこが好きで勝手に入り浸ってたんです。その後同じテクノバンドをやっていた川島太郎がMOODMANと繋がってSlug Pharmacy名義でリリースをして、川島の紹介でソロ(『bonjour』)を出すきっかけに。
ーーそれ以前は、ソロでの音楽制作はされていたんですか。
浅野 やってはいたんですけども......テクノを自分で作ろうと思ったら、田舎くさいのしか作れなかった(笑)。田舎の和室にあるような、天井から電球が吊り下がっているような部屋で四つ打ちを作ってる自分にふと我に帰って、いっそのこともっと田舎っぽい曲を作ろう、と思うようになって。
飯田 浅野さんはギターがすごく上手なんだけど、そのテクノバンドだとあまりギターが活躍できないですよね。ギターの曲が聴きたいと思ってたんです。で、当時の僕は僕で、ゲームを作っていきたい気持ちはあったけど、どうやって自分が作りたいものが作れるのかわからなかった。それで、浅野さんのバイトでの勤務が最後の日に、僕と浅野さんがベランダで一緒にタバコ吸ってたんですね。今日が告白する最後のチャンスだと思って、明け方の人形町を見ながら「いつか自分がゲームを作ることになったら、浅野さんに音楽をお願いしたいと思ってる」って告ったんですよ。
桝山 そんなことあったんだ! 告られた方は覚えてないの?
浅野 今それを思い出した......そんなことあったなー。
飯田 1996年にシングル「bonjour」が出たときは西新宿のLOS APSON?に行って速攻で買いました。まさにこういう浅野さんの音楽が聴きたかったと思って。一緒にやりたい思いがより強くなったんです。
続きは会場で!!
インタビュー・構成:パンス(TVOD)
企画:寺沢美遊、片平啓(WWW)
デザイン:pootee
協力:MOODMAN
公演名:浅野達彦 - ドシンの跡を追って "In The Wake Of Doshin, the GIANT" LP Release Party
出演
Live
浅野達彦
ind_fris
Takao
DJ
MOODMAN
Akie
日程:2022年11月14日(月)
時間:開場開演 18:30
料金:前売 ¥3,500(オールスタンディング / ドリンク代別)
チケット:LivePocket
WWW 03-5458-7685